漢字・仮名遣いの改定
漢字の字数・字体および仮名遣いについては、近代以降、たびたび改定が議論され、また実施に移されてきた[74]。
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仮名遣いについては、早く小学校令施行規則(1900年)において、「にんぎやう(人形)」を「にんぎょー」とするなど、漢字音を発音通りにする、いわゆる「棒引き仮名遣い」が採用されたことがあった。1904年から使用の『尋常小学読本』(第1期)はこの棒引き仮名遣いに従った。しかし、これは評判が悪く、規則の改正とともに、次期1910年の教科書から元の仮名遣いに戻った。
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第二次世界大戦後の1946年には、「当用漢字表」「現代かなづかい」が内閣告示された。これにともない、一部の漢字の字体に略字体が採用され、それまでの歴史的仮名遣いによる学校教育は廃止された。
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1946年および1950年の米教育使節団報告書では、国字のローマ字化について勧告および示唆が行われ[127]、国語審議会でも議論されたが、実現しなかった。1948年には、GHQの民間情報教育局(CIE)の指示による読み書き能力調査が行われた。漢字が日本人の識字率を抑えているとの考え方に基づく調査であったが、結果的に、かえって日本人の識字率は高水準であることが判明した[128]。
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1981年には、当用漢字表・現代かなづかいの制限色を薄めた「常用漢字表」および改訂「現代仮名遣い」が内閣告示された。また、送り仮名に関しては、数次にわたる議論を経て、1973年に「送り仮名の付け方」が内閣告示され、今日に至っている。戦後の国語政策は、必ずしも定見に支えられていたとはいえず、今に至るまで議論が続いている(「国語国字問題」参照)。
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[編集] 文体史
[編集] 和漢混淆文の誕生
平安時代までは、朝廷で用いる公の書き言葉は漢文であった。これはベトナム・朝鮮半島などと同様である。当初漢文は中国語音で読まれたと見られるが、日本語と中国語の音韻体系は相違が大きいため、この方法はやがて廃れ、日本語の文法・語彙を当てはめて訓読されるようになった。いわば、漢文を日本語に直訳しながら読むものであった。
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漢文訓読の習慣に伴い、漢文に日本語特有の「賜」(…たまふ)や「坐」(…ます)のような語句を混ぜたり、一部を日本語の語順で記したりした「和化漢文」というべきものが生じた(6世紀の法隆寺薬師仏光背銘などに見られる)。さらには「王等臣等乃中尓」(『続日本紀』)のように、「乃(の)」「尓(に)」といった助詞などを小書きにして添える文体が現れた。この文体は祝詞(のりと)・宣命(せんみょう)などに見られるため、「宣命書き」と呼ばれる。
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漢文の読み添えには片仮名が用いられるようになり、やがてこれが本文中に進出して、漢文訓読体を元にした「漢字片仮名交じり文」を形成した。最古の例は『東大寺諷誦文稿』(9世紀)とされる。漢字片仮名交じり文では、漢語が多用されるばかりでなく、言い回しも「甚(はなは)ダ広クシテ」「何(なん)ゾ言ハザル」のように、漢文訓読に用いられるものが多いことが特徴である。
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一方、平安時代の宮廷文学の文体(和文)は、基本的に和語を用いるものであって、漢語は少ない。また、漢文訓読に使う言い回しもあまりない。たとえば、漢文訓読ふうの「甚ダ広クシテ」「何ゾ言ハザル」は、和文では「いと広う」「などかのたまはぬ」となる。和文は、表記法から見れば、平仮名にところどころ漢字の交じる「平仮名漢字交じり文」である。「春はあけぼの。やうやうしろく成行山ぎはすこしあかりて……」で始まる『枕草子』の文体は典型例の一つである。
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両者の文体は、やがて合わさり、『平家物語』に見られるような和漢混淆文が完成した。
強呉(きゃうご)忽(たちまち)にほろびて、姑蘇台(こそたい)の露荊棘(けいきょく)にうつり、暴秦(ぼうしん)すでに衰へて、咸陽宮(かんやうきう)の煙??(へいけい)を隠しけんも、かくやとおぼえて哀れなり。(『平家物語』聖主臨幸)[129]
ここでは、「強呉」「荊棘」といった漢語、「すでに」といった漢文訓読の言い回しがある一方、「かくやとおぼえて哀れなり」といった和文の語彙・言い回しも使われている。
今日、最も普通に用いられる文章は、和語と漢語を適度に交えた一種の和漢混淆文である。「先日、友人と同道して郊外を散策した」というような漢語の多い文章と、「この間、友だちと連れだって町はずれをぶらぶら歩いた」というような和語の多い文章とを、適宜混ぜ合わせ、あるいは使い分けながら文章を綴っている。
[編集] 文語文と口語文
話し言葉は、時代と共にきわめて大きな変化を遂げるが、それに比べて、書き言葉は変化の度合いが少ない。そのため、何百年という間には、話し言葉と書き言葉の差が生まれる。
日本語の場合は、平安時代には、書き言葉・話し言葉の差は大きくなかったと考えられる。しかしながら、中世のキリシタン資料のうち、語り口調で書かれているものを見ると、書き言葉と話し言葉とにはすでに大きな開きが生まれていたことが窺える。江戸時代の洒落本・滑稽本の類では、会話部分は当時の話し言葉が強く反映され、地の部分の書き言葉では古来の文法に従おうとした文体が用いられている。両者の違いは明らかである。
明治時代の書き言葉は、依然として古典文法に従おうとしていたが、単語には日常語を用いた文章も現れた。こうした書き言葉は、一般に「普通文」と称された。普通文は、以下のように小学校の読本でも用いられた。
ワガ国ノ人ハ、手ヲ用フル工業ニ、タクミナレバ、ソノ製作品ノ精巧ナルコト、他ニ、クラブベキ国少シ。(『国定読本』第1期 1904)
普通文は、厳密には、古典文法そのままではなく、新しい言い方も多く混じっていた。たとえば、「解釈せらる」というべきところを「解釈さる」、「就学せしむる義務」を「就学せしむるの義務」などと言うことがあった。そこで、文部省は新しい語法のうち一部慣用の久しいものを認め、「文法上許容スベキ事項」(1905年・明治38年)16条を告示した。
一方、明治20年代頃から、二葉亭四迷・山田美妙ら文学者を中心に、書き言葉を話し言葉に近づけようとする努力が重ねられた(言文一致運動)。二葉亭は「だ」体、美妙は「です」体、尾崎紅葉は「である」体を初めとする文章を試みた。このような試みが広まる中で、新聞・雑誌の記事などにも話し言葉に近い文体が多くなった。古来の伝統的文法に従った文章を文語文、話し言葉を反映した文章を口語文という。第二次世界大戦後は、法律文なども口語文で書かれるようになり、文語文は日常生活の場から遠のいた。
[編集] 方言史
[編集] 近代以前
日本語は、文献時代に入ったときにはすでに方言差があった。『万葉集』の巻14「東歌」や巻20「防人歌」には当時の東国方言による歌が記録されている[130]。820年頃成立の『東大寺諷誦文稿』には「此当国方言、毛人方言、飛騨方言、東国方言」という記述が見え、これが国内文献で用いられた「方言」という語の最古例とされる。平安初期の中央の人々の方言観が窺える貴重な記録である。
平安時代から鎌倉時代にかけては、中央の文化的影響力が圧倒的であったため、方言に関する記述は断片的なものにとどまったが、室町時代、とりわけ戦国時代には中央の支配力が弱まり地方の力が強まった結果、地方文献に方言を反映したものがしばしば現われるようになった。洞門抄物と呼ばれる東国系の文献が有名であるが、古文書類にもしばしば方言が登場するようになる。
安土桃山時代から江戸時代極初期にかけては、ポルトガル人の宣教師が数多くのキリシタン資料を残しているが、その中に各地の方言を記録したものがある。京都のことばを中心に据えながらも九州方言を多数採録した『日葡辞書』(1603年〜1604年)や、筑前や備前など各地の方言の言語的特徴を記した『ロドリゲス日本大文典』(1604年〜1608年)はその代表である。